へいもと のぶゆき
塀本信之プロフィール
      2010.06.05現在
○1939年生まれ71歳
○新町・八万小学校・八万中学校を経て城南 高校卒業
○松山郵政研修所・徳島勝占郵便局・徳島郵 便局などを経て徳島合同法律事務所事務局 長を17年間つとめ市議会議員に。現在6期目
○総務常任委員会・開発特別委員会・議会運営委員会各委員
○日本共産党徳島県委員・徳島地区副委員長・徳島市議団団長
○可動堰反対市民の会事務局担当幹事/徳島自治体問題研究所理事/日本国民救援会県本部副会長
○家族 妻さち子と二人暮らし/子供2人は神戸市在住
○пE
FAX 088−654−7289 
携帯 090-3786-5162
○住所 770−0925 
徳島市弓町3丁目6−1

07年の選挙から使っている似顔絵です。

私は1965年に国公法により弾圧され足かけ10年裁判闘争をたたかいました。
それについて2006年12月8日のしんぶん赤旗に、関連記事が掲載されました。その記事と昨年の初め「救援情報誌」の巻頭言に寄稿した一文を掲載します。


国民への攻撃はね返すとき
   
                  国公法弾圧の体験者 
                           塀本 信之さん(67)
 「言論・表現の自由を守る12・8国民集会」が8日午後6時半から東京・日比谷公会堂で開かれます。

 休日に、自宅近くなど職務とまったく関係のない所でビラを配った社会保険庁の職員が、国家公務員法と人事院規則に違反するとして逮捕・起訴された国公法弾圧堀越事件と同世田谷事件。同法を使った逮捕は二十年ぶり、起訴は実に三十二年ぶりという異常さです。

 国家権力のどす黒い意図

 「逮捕のニュースを聞いた時、"国家権力が再び国公法を使いだした"と怒りがわいてきました」と語るのは、日本共産党徳島市議の塀本信之さん(67)。一九七四年十一月、公務員の政治活動を一律に禁じることを合憲とした最高裁の不当判決を受けました。「しかし、判決以降、法学界や世論の力で、国はこの法律を適用できなくなりました。それを、また使い始めた。国家権力のどす黒い意図を感じます」
 塀本さんが罪に問われたのは一九六五年、徳島郵便局員だった二十七歳の時。勤務時間外に、職場から遠く離れた山村で開いた日本共産党の個人演説会で司会をしたことが犯罪とされました。
 公務員の政治活動を禁じた同法の規定は、終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)の圧力で導入されたもので、"占領の遺物"といわれました。
 一、二審は"憲法が保障する表現の自由(二一条)、法定手続きの保障(三一条)に違反する"として無罪。それを覆した最高裁判決は、法学界や国民世論から「憲法擁護の任務を最高裁が放棄した」「司法の反動化の正体を浮き彫りにしたもの」といわれました。
 判決直後、「お城のような最高裁の建物に民主主義が確立するまで、頑張ります」と訴えた塀本さん。その後、市議会議員となり、えん罪事件の再審支援や民主県政の実現など保守・無党派層とも共同する広範な市民運動の先頭に立ってきました。

 
世論バックにがんばれば・・・

 「あのころはベトナム戦争の時期で、日本を基地にしてアメリカの攻撃機が出撃していきました。今はアメリカが引き起こしたイラク戦争に加担し、海外派兵を自衛隊の本来任務とする防衛省法案も衆院を通過しました。時代背景は酷似しています」と塀本さん。
 「今、相次ぐ増税や労働条件の改悪など、国民の命と暮らしにさまざまな攻撃がかけられています。まさにその時、露払いのように公務員攻撃がやられ、たたかう労働者を弾圧で抑え込もうとしています。今も昔も、これらの攻撃のネライが国民を分断し、広範な反撃をつぶすことにあることは明らかです。それだけに、国民世論をバックに頑張れば、事態を動かすことができます」と、「12・8国民集会」への期待を語ります。(2006年12月8日しんぶん赤旗14面)
昨年、東京の堀越さんが逮捕起訴され、国家公務員法による弾圧が再開されました。
私は、1965年の参議院選挙で、日本共産党の候補者の個人演説会で司会をしたことが国家公務員法の政治活動禁止条項にふれるとして逮捕・起訴され、爾来あしかけ10年間たたかった経験があります。
私が逮捕されたとき、徳島には救援会はなく、民主的法律事務所もありませんでした。黙秘でたたかってはいたものの、弁護士との接見は逮捕の2日目の夜。
この日、多くの支援者のシュプレヒコールがこだまする中、大阪の東垣内弁護士との接見は私にとって忘れられないものとなりました。
釈放後、何をどうたたかったらいいのかわらないままに、救援会を知り、その全国総会に参加し、全国で多くの仲間がたたかい、それを支援する救援会があることを学びました。
権力の弾圧を跳ね返すため、救援会を大きくし、民主的法律事務所を徳島にも作りたい。これが私の内なる決意でした。
幸い、徳島ラジオ商事件の冨士茂子さんの甥、渡辺倍夫さんをしり、二人で救援会結成に取り組み、ささやかではありますが支部を結成。その後民放にはたらく大島和典さん(今は沖縄で平和ガイド)の尽力もあり、大きな救援会へと発展しました。
徳島の救援会は、私の事件や労音ビラ貼り事件、選挙弾圧(これは一件も起訴させなかった)事件をたたかい、多くの労働民事裁判の勝利に貢献し、なんといっても、徳島ラジオ商事件の冨士茂子さんの再審裁判の勝利を勝ちとりました。
弁護士事務所も徳島出身の林伸豪弁護士が帰郷。私も郵便局を退職して事務局員となり、今の徳島合同法律事務所が生まれました。
権力の弾圧の思惑は、住民と日本共産党とのつながりの切断にあったと思いますが、その弾圧と真正面からたたかい、救援会を大きくし、自由法曹団の事務所を確立すれば、それだけでもその意図を跳ね返し、たたかいの地歩を進めることができるというのが今の私の確信です。(日本共産党徳島市議・塀本信之)